Jan 01, 2011

韓国で開発された"ドラゴンネスト"について。

"ドラゴンネスト"は初耳でしたので調べてみたところ、ゲームの名前です。 "ドラゴンネスト"のゲーム開発は韓国だが、運営は韓国のほか日本でも行われているということです。利用者IDが500万IDを超えたこと(2011年6月時点)あまりにも多くの人がプレイするゲームだと知ることができます。
コンピュータといえば、ブラウン管の時代は一数十万円して故障をすると保証期間が過ぎた場合でも、コンピュータを修理した。しかし、最近はPCの価格が安く、保証期間内には、コンピュータの修理しようとも思うのだが、保証期間が過ぎていると、修理代金は新品を購入ゴトグァビョルロ変わらないものも少なくない。修理といっても、コンピュータの修理部品を交換するのではなく、基板と部品の交換をする場合、人件費が高いため、そのようになると思う。
 【リノ(ネバダ州)】アブドゥルファター・ジョン・ジャンダリさんはここ1年、面識のない息子に何度かメールを送った。「ハッピーバースデー」や「体調の回復を祈っている」など短いものばかりだ。

 息子のスティーブ・ジョブズ氏から返信があったかは定かでない。ジョブズ氏の親近者は返信をしていないという一方で、ジャンダリさんは2回短い返信を受け取ったという。

 最後の返信はジョブズ氏が亡くなる6週間前で、「ありがとう」と簡潔に書かれていたとジャンダリさんは話す。

 ジャンダリさんにとって、米アップルを共同創立し、世界で最も有名なビジネスマンの1人となった実の息子について語れることは、自身が愛用する「iPhone(アイフォーン) 4」と簡単なメールのやり取り以外にほとんどない。

 ネバダ州リノ付近のブームタウンカジノでゼネラル・マネージャーを務めるジャンダリさんは今年80歳。カジノでは約450人のスタッフを統括しており、物静かなリーダーシップスタイルとマーケティング手腕に定評がある。今月7日、ジャンダリさんがカジノ内を歩いていると、ある従業員が5ドルのスロットマシンの導入を感謝するために近寄って来た。ジャンダリさんは握手し、頻繁に通うカジノ内の中華麺店に座った。

 ジョブズ氏は生まれたばかりの時に養子に出された。ジャンダリさんは、ジョブズ氏とはその後ほとんど連絡を取っていなかったと話し、「子供達の成功で称賛される立場にはない」と語った。ジャンダリさんは小説家のモナ・シンプソン氏の父親でもあるが、関係は良くないという。

 ジャンダリさんは子供達と疎遠になったことで長年深い悲しみを抱いてきたと友人はいう。子供の成功に便乗していると見られるのを恐れ、ジャンダリさんは有名になった子供について、近い友人にも話すことはほとんどなかった。

 友人のキース・ヘンソンさんは、「疎遠になったことをずっと悔やんでいたようで、過去に違う決断をしていたか、違う結果になっていれば良かったと思っていたようだった」と話した。ヘンソンさんとジャンダリさんはブームタウンカジノの元同僚で、結婚式の付添人を頼むほどの仲だが、ジャンダリさんがジョブズ氏の実の父親であることをヘンソンさんが知ったのはたった3年前だ。

 自分の話は興味深いものではないとしながらも、カジノの中華麺店でインタビューに応じたジャンダリさんは、ここ数年のジョブズ氏の健康問題について、気が気でなかったと話した。

 皺の寄った目と頭の周りに残る白髪など、ジャンダリさんとジョブズ氏は 身体的特徴が似通っている。ジャンダリさんのオフィスには、インターネット上からダウンロードしたというシンプソン氏の写真が飾られている。

 ジャンダリさんがジョブズ氏の死を知ったのは、見知らぬ人からの哀悼の意を表する1本の電話だった。ジャンダリさんはすぐに電話を切った。

「ショックは感じなかった。ただただ悲しかった」

 ジョブズ氏が実の息子だということを知ったのは2005年頃だったという。どのようにして聞いたかは覚えていないが、「ものすごくびっくりした」とジャンダリさんは話した。

 その後、ジョブズ氏の製品発表会での有名な基調講演をインターネット上で見始めた。健康問題が明らかになった後は、何度かメールも送ってみた。

 「なぜメールしたのか分からない。恐らく、体のことを聞いて気の毒に思ったのだろう。彼には彼の人生があって、私には私の人生があり、2人の接点はなかった。話をする機会があったところで何を話したかも分からない。」

 ジョブズ氏が亡くなった後、ジャンダリさんはシンプソン氏に電話をしたが、連絡は取れなかったという。ジャンダリさんはインターネットを埋め尽くす20代から30代の頃のジョブズ氏の写真を見て、「自分の若い頃にそっくりだ」と話した。

 ジャンダリさんはまた、先週になってジョブズ氏が2005年にスタンフォード大学で行った祝賀スピーチを読んだ。その中でジョブズ氏は生と死について語り、自らが養子縁組に出された時のことを、「私の実の母親は若い、未婚の大学院生だった・・・彼女は私を大卒者に養子に出すべきだと強く思っていた」と述べている。

 1955年にサンフランシスコで生まれたジョブズ氏は、実の母親が高校を中途退学してメカニックになったポール・ジョブズさんと、大学を卒業していなかったクラリス・ジョブズさんに養子に出すことに最終的に合意したことをこのスピーチの中で語っている。そして、ジョブズ氏は2人に引き取られた後サンフランシスコ近郊で育った。ジョブズ氏は実の母親と妹との関係については明らかにしていたが、ジャンダリさんについて公言したことはない。

 ジャンダリさんを知る人は、異なる分野ではあるものの、ジャンダリさんは息子と同様に知的能力と消費者の欲求を理解する才能を持っていると話す。しかし、新製品で観客を熱狂させることで知られるショーマンのジョブズ氏と違い、ジャンダリさんは裏方に徹するタイプだという。

 ブームタウンカジノを運営するピナクル・エンターテインメントのアンソニー・サンフィリッポ最高経営責任者(CEO)は、ジャンダリさんについて「周りに良い影響を与える人物」と評価し、「ショーマンとは正反対で、いつも他人が注目されるように気を配っている。カジノの利用客が何を欲し、何にお金を出そうとするのかを理解している」と語った。ジャンダリさんは1年前にホスピタリティの責任者からゼネラル・マネージャーに昇格した。

 ジャンダリさんは、昔から技術には詳しくないとしながらも、自らをアーリーアダプターと見ている。最初に購入したコンピュータはアップル製で、その後もアップルのコンピュータ(現在はノートパソコンとデスクトップを保有)しか購入していないという。また、全てのiPhoneモデルとiPad(アイパッド)は発売後すぐに購入。「使えるツールは全て使うべき」と話すジャンダリさんは、ツイッターとフェイスブックも利用している。

 ジャンダリさんはシリア第3の大都市であるホムスで生まれ育った。家族は村や広大な土地を有する名家で、そこでは労働者がジャンダリさん家族のために小麦や綿を育てていた。

 ジャンダリさんの父親は3人の息子に教育の重要性を教え、末っ子のジャンダリさんはシリアの外交官になる決意をした。1952年に渡米し、1年後に政治学の博士号を取得するためウィスコンシン大学に入学。中東諸国が植民地政策から独立する方法について学んだ。大学の記録によると、ジャンダリさんは1956年に「United Nations Efforts to Set Standards for National Independence(国の独立に関する基準を定める国連の取り組み)」という論文を発表して博士号を取得した。

 ウィスコンシン州マディソンで学生生活を送る中、ジャンダリさんはグリーンベイ出身で言語療法を学ぶ大学院生のジョアン・シーブルさんと付き合うようになった。シーブルさんは1954年に妊娠したが、父親がジャンダリさんとの交際を認めなかった。

 シーブルさんは妊娠中、数カ月間サンフランシスコに行き、その後息子のジョブズ氏を養子に出した。

 シーブルさんがマディソンに戻ったすぐ後に彼女の父親がなくなり、ジャンダリさんとの結婚が可能になった。ジャンダリさんの卒業後、2人はシリアに移住したが、政府は過渡期にあり、ジャンダリさんの外交官になるという夢は破れた。代わりに石油精製所の運営に携わったが、シーブルさんはシリアでの生活に馴染めずグリーンベイに戻り、2人目の子供を出産した。

 ジャンダリさんは、その後マディソンに戻りウィスコンシン大学で教授として働き始めた。同大学とその後異動した大学でのジャンダリさんの功績は、アラブ語の新聞にいくつか寄稿したのみであった(ウィスコンシン大学にはジャンダリさんが教授として働いていた記録が残っていないが、現政治学部長のジョン・コールマン氏によるとジャンダリさんがいくつかクラスを教えた可能性はあるという)。

 ジャンダリさんとシーブルさんは数年後に離婚。その後シーブルさんは再婚して、現在はジョアン・シンプソンさんという名前になっている。ジャンダリさんは娘の幼少期にほぼ関わりを絶っており、親近者の話では、「ジャンダリさんは家族を捨て、ほとんど連絡が取れない状態だった」という。

 ジョブズ氏は成人後に実の母親と妹との関係を修復した。今回、ジョアン・シンプソンさんからのコメントは得られていない。

 モナ・シンプソン氏は1993年に「The Lost Father(失った父親)」という小説を発表した。主人公が会ったことのない父親を探しに行くという話で、ジャンダリさんはこの本を読んで主人公の父親に自分の影を感じたという。

 「彼女なりの発散の仕方だろうが、それで良いと思う。父親として子供の成長に関わらなかったことに対して支払うべき代償だ」とジャンダリさんは話す。

 ジャンダリさんはウィスコンシン大学以外にも米国の多くの大学に加盟しており、1968年にはリノにあるネバダ大学でも教鞭をふるった。しかし、在籍期間は短く、1970年には職を離れている。ジャンダリさんはこの時すでにリノでレストランを経営しており、当時の同僚によると、教授仲間を招待することもあったという。

 ジャンダリさんは不動産関連の仕事をする女性と再婚し、子供ももうけた。その後、倒産したフレンチレストランを転売するなどして生計を立てたあと、ラスベガスのカジノでレストランを経営し、1999年に飲食担当責任者としてブームタウンカジノで働き始めた。

 ブームタウンを含めリノのカジノは他州などへの客の流出に直面するようになり、地元客の取り込みに注力するようになった。2000年にジャンダリさんはロブスターブッフェのレストランを導入するようカジノ側と交渉し、これが週末に多くの客を呼ぶことになった。「最初、皆が赤字になることを予想して、開店するよう言い張った私のことを正気でないと思っていたが、結局大勢の客を呼ぶことになった」とジャンダリさんは話す。元同僚のハンセンさんは、これを「この地域のカジノで最も成功したマーケティング策の1つ」という。

 妻に先立たれたジャンダリさんは2006年に再婚し、現在はリノ郊外で暮らしている。読書好きのジャンダリさんは、iPadを使って本を読むことが多い。また、退職後はいくつか本を書きたいという。

 しかし、現時点ではカジノでの仕事に集中している。翌日には大きなイベントが控えていた。

 昼食を終え、ジャンダリさんは中華麺店を後にした。ギャンブルを楽しむ人の横を通りながら、ジャンダリさんは手に持ったiPhoneを振った。そして、「アップルの製品は最高だ。スティーブ・ジョブズは天才だった」と静かに言った。

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