Jul 28, 2010

白血球、抗体を用いる免疫療法の種類

免疫療法は、ワクチン、自律神経免疫療法、活性化自己リンパ球療法、抗体を用いた治療、健康食品、イメージ療法、免疫賦活剤、サイトカインによる免疫療法など、さまざまな方法があります。がん細胞の増殖を抑えたり、手術後の癌細胞の転移、再発を抑制することを目的とした治療法です。白血球や抗体を用いて行う治療法のことです。
がんが進行すると全身が痛い。末期がんの痛みとの戦いと言われています。もし、がんが末期まで進行されると、痛みを緩和するための薬液が打たれたのだ。しかし、だんだん痛みがくるため、すぐに痛みを緩和する薬液は、強力なものとなり、モルヒネを投与されている場合が多い。その程度で末期がんの痛みです。
 皇后さまは15日、東京・墨田区で行われた木製の管楽器「コカリナ」のコンサートを鑑賞された。

 コカリナ演奏の第一人者、黒坂黒太郎さん(61)が、広島への原爆投下時に被爆したエノキから作ったコカリナで演奏した。

 コカリナは、黒坂さんが1995年、ハンガリーから日本に持ち帰った楽器をオカリナに構造が似ていて、木で出来ていることなどから命名、改良されてきたもの。皇后さまは盛んに拍手を送られていた。

 ネパール政府が創設した「ゴータマ・ブッダ国際平和賞」の受賞が決まった秋葉忠利・広島市長は14日、「核兵器のない世界に向けた被爆者や平和市長会議などによる世界的規模の活動が評価された結果だと受け止めており、大変光栄。受賞を励みとして、核兵器のない世界を2020年までに実現するため、より一層力を尽くしたい」とのコメントを発表した。【加藤小夜】

1月15日朝刊

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 「私たちは小さい時から洗脳されて看護学生になり、戦争のために命がけで看護したんです。手当てよりも『かわいそうでした、すみません』という国の言葉がほしい」
 11日に老衰のため、83歳で亡くなった原爆症認定集団訴訟の原告だった深谷日出子さんは、日本被団協機関紙「被団協」第293号へのインタビューにこう寄せている。
 全国で起きた集団訴訟で初めての判決だった、06年5月の大阪地裁判決で勝訴をもぎ取った原告の一人。認定制度の不十分さを指摘する判決は、全国の他の訴訟にも影響を与え、その後の認定基準改正に大きな弾みをつけた。
 広島県府中市出身。広島赤十字病院の看護学生だった18歳の時、爆心地から約1・7キロの寄宿舎で被爆した。血まみれの体を包帯で巻いたまま、傷病者の看護に当たった。放射線被害とみられる急性症状の下痢や脱毛、歯ぐきからの出血に加え、体内からは50以上のガラス片が見つかった。
 戦後、看護師として働き、結婚して篠山市に住むようになった。49年ごろに「右目中央が光線で焼けている」と診断された。その後、右目は白内障を患い、失明。左目も白内障にかかった。01年に原爆症認定申請を出すが、却下。03年5月、提訴した。
 長女の田中悦子さん(47)は「看護師だった母は自分が先陣を切れば、他の人も救うことができると思い、提訴する気になったのでしょう。本来、怒りや悲しみを静かにためるタイプだったので」と語る。
 訴訟は1、2審ともに勝訴。08年6月に判決は確定した。2審の大阪高裁判決後、深谷さんは記者団に「まだまだ困っている人がたくさんいる。私のように苦しんで裁判を受けなくても、(厚労省は)認定してほしい」と話していた。
 悦子さんによると、亡くなる前日も会話を交わすなど元気な様子だったという。近年は毎年のように近所の小学生に求められ、「後生に言わな」と被爆体験を語っていた。
 深谷さんを支えた近畿訴訟弁護団長の藤原精吾弁護士は「口数は少なかったが、どっしりと構えてぶれない人だった。爆心地近くで被爆し、窓ガラス越しに光を浴び、それが元で原爆症になったのは間違いないと疑うことがなかった。集団訴訟を切り開いた功労者だった」と語った。【井上梢】
〔神戸版〕

1月14日朝刊

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 韓国・陜川(ハプチョン)の羅(ナ)戊連(ムヨン)さん(71)が12日、広島市役所を訪れ、被爆者健康手帳の交付を受けた。被爆の証人が見つからずに手帳を取ることができなかったが、被爆前に実の姉妹のように親しかった厳粉連(オムプンヨン)さん(82)と09年に再会。厳さんが証人となった。羅さんは涙を流し「胸のつかえがやっと取れた」と喜んだ。
 厳さんは1929年、陜川から広島に渡った。その後、陜川から広島に渡った羅さんの家族は、同郷の厳さん一家を頼りにした。広島市三篠本町2丁目にあった厳さんの家の離れで暮らし、父は建設業を興していた厳さんの父の下で働いた。厳さんは妹のように羅さんを可愛がった。
 45年8月6日、厳さんは爆心地から約1・7キロの学徒動員先で、羅さんは約2キロの自宅で被爆。避難中に2人は自宅近くの竹やぶで会ったが、それきりになり、別々に朝鮮半島へ引き揚げた。
 厳さんは原爆で大やけどを負った足を引きずりながら生きてきた。羅さんは帰郷して4カ月後、被爆で大けがをした父が亡くなり貧しい生活に耐えてきた。羅さんは体が弱く、手帳取得を望んできたが、証人が見つからなかった。2人は09年、ともに入居した陜川原爆被害者福祉会館で、64年ぶりに再会した。羅さんの細面に昔の面影を感じた厳さんが声をかけ、抱き合って再会を喜び合った。
 羅さんは「(約30年前に亡くなった)母が生きていたらどれだけ喜んだか。墓前に報告したい」。厳さんは「被爆前の知り合いを探し出し、手帳を取ることができて本当によかった」と話した。【樋口岳大】

1月13日朝刊

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